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2020
09May

『主の命(めい/いのち)を受けて』 野田沢牧師

  • 今月の説教

ヨハネによる福音書15:11-17

復活節第5主日の礼拝を、それぞれのところで想いを一つにともに守りましょう。

 

私たちは今、感染症の試練の中にはあります。がしかし、一信仰者としては主の御復活の喜びの中を生きています。前回、私が担当をさせていただいたところは「私はまことのぶどうの木。あなたがたはその枝である。」の御言葉でした。今回は、復活節第5主日ではありますが、前回の聖書箇所に続いて、主の御言葉に聞いてまいりたいと思います。

ここは前回同様、主イエスが弟子たちに語られたところです。そうではあるのですが、しかし私たちは今、同時に私たちにも語られているのだという思いで聞きたいものです。

私たちは、十字架の前夜、最後の晩餐、ゲッセマネの祈り、十字架、そして復活のイエスとの出会い・・・と、弟子たちと共に、その場面にいたでしょうか?またともに逃げ出したでしょうか?ともに悩み、自らの弱さを知り、悲しみ憤り、そして復活の主にまことに喜んだでしょうか?

そのようなイキイキとした聖書との関わりを持ちたいものです。

 

本日のテキスト。主イエスが弟子たちにお命じになります。それは、「互いに愛し、助け合いなさい」ということ。

「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。」

まず、キリストの命令から始まります。これは、当時の律法のスタイルをとっています。これは、以前からの(古いと言って失礼ですが)律法との対比。主イエスの律法は、戒律ではなく「愛すること」なのだと。「愛」こそが、主イエスの律法なのだと。

やはりキリストは、キリスト教は愛なのか。と。よくキリスト教は愛の宗教だ。甘い。といわれたりもします。…しかし、その本当のところは決して甘くはありません。

 

13節にはこのようにあります。

「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。」

…どうでしょうか。ドキッとさせられはしないでしょうか。

「友の為に命を捨てることのできる愛を持ちなさい。他者のために命を捨てるほどの完全な愛を持った者こそが、私に従うのにふさわしい。」と。

 

そして私たちは正直に告白します。「そのような愛は持ち得ません」と。

そして落胆します。やはり私のような信仰者ではあなたには従えないのでしょうか」と。

 

「あなたは他者のために死ぬことができますか?」

 

…しかしここでは、そのことを問うているのではないのです。主イエスがここでおっしゃっているのは、我々への問いではない。我々の愛や信仰の覚悟ではない。

それは、14節から遡って、13節、12節と逆に読んだ方がわかりやすいかもしれません。

 

14節:「あなたがたはわたしの友である。」

13節:「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。」

…あなた方は私の友である。その友のために、私は自分の命を捨てましょう。十字架の上で。

 

ここで、最後の晩餐の席で、十字架の前夜に主イエスが弟子たちに対し、また私たちにおっしゃったのは、自分自身の十字架への覚悟であり、私たちへの愛と贖罪の想いです。

「あなたは友のために死ねるか?」ではない。そのことを問うているのではない。反対です。「死ねるのか?」ではなく、主イエスが(友と呼んでくださる)私たちのために、十字架にかかってくださった!私たちの罪のために死んでくださった!ということ。「これほどまでに、あなたを愛しているのだ」ということです。まさにその通りです。まさにあの十字架は、私たちのために死んでくださった出来事なのです。

 

15節以下に、主が私たち一人一人を友としてくださっている根拠が書かれています。

15節:「もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。」

…僕は、主人の意図も行動も知らないが、友は、弟子たちは知っている。

私たちは知っている。主イエスのお生まれになった意図、その後の行動、その全てを知っている。生まれてから死ぬまで、いやその先をも知っている。主イエスの命そのものを知っている。イエス・キリストという方が、何のために生まれ、何のために死んでくださったか。を。旧約聖書の時代から、この世の最初から、そして今から2000年前の主イエスを通して示された、神の意思と決断、この世と私たち一人一人への想いを。

私たちはこの「聖書」を通して、弟子以上にイエス様のことと神のご意思を知らされている。

…それが私たちが僕ではなく友である証だと言われる。主イエスが、この私たちを友として招いて下さっている。この主イエスの愛、神なる主が、友としてわたしたちを招く。いや、友となるために私たちの所へ降って下さる。

イエス様を愛し、知りたい、学びたい、従いたいと願う私たちキリスト者。「クリスチャン」とは、「主イエスの友人」といってよい。この愛によって、私たちは今、生きている。この教会が生まれ、存続している。

 

16節:「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。」

…主イエスは、何の為に、ご自分を証しし、私たちに聖書を通して伝え、友として招き、その友の為に十字架で死んでくださったのか。

 

それは、「あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るように」…日々の生活の中で、悩みや悲しみ、恐れや不安の多い生活の中にあって、信仰を育み、わたしたち全ての者が救いの道に至るように。また、「わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるように」…わたしの名によって、イエス・キリストへの信頼によって、日々の悩みや悲しみ、恐れや不安からの解放。

…これは、そんなに簡単なものではない。よく分かります。不安は尽きません。しかし、日々の様々な悩みと悲しみとに出会い、不完全な信頼でありながらもイエス・キリストへと頼り、祈る。神との対話、応答の中で、信頼が強められ、恐れや不安は弱められていく。

老い、病、将来、多くの不安や恐れは、イエス・キリストと、イエス様をくださった神の愛への信頼とによって、イエス・キリストへの信頼が増せば増すほど、そう、「神の国」への信頼(主の十字架と復活は私たち一人一人の神の国への約束)が増せば増すほど、この世における不安や恐れは消えゆくでしょう。

 

この聖書箇所では3度、重要な言葉が選ばれています。それは、「選んだ・任命した」という主イエスの言葉。主の主体性を表す言葉。私たちの救いの主体、そしてその確証を与える言葉。

「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。」

…私たちが選んだのか。私たちが主イエスを選び、聖書を選び、教会を選んだのか。そうではない。私たちの選びほど、あやふやなものはない。そうではない。主イエスのまことのまなざしからの、まっすぐに私たち一人一人を見据えての選び言葉。

 

そして最後は「任命」です。…この「任命」は、重い。任命者には責任が伴う「主による任命」とは、「主イエスと私たちの関係性の証し」の言葉である。あなたが本当に望ば、必ず私は実を結ぶように導くと。どこに行っても何をしている時も主の守りがあると。いつでもどんな時も祈りに応え、あなたを守り導く。…全知全能の任命者が、愛の任命者が、そのようにおっしゃっているのです。

この主の約束、弟子たちへの、また私たちへのあまりに力強い「実を結ぶ」という約束。弟子たちへの「伝道(宣教)の業」の結実。私たちへは「信仰者としての救い」の結実。また、その私たちの群れとしての教会へは、弟子たちの結実の結果でもあるこの教会への約束は、やはり「伝道(宣教)の結実」の約束なのでしょう。

 

17節に、最後にもう一度繰り返されます。「互いに愛し合いなさい。」

…主の想いであり望み、ご命令であり遺言」は、わたしたちが愛し合うこと。

「あなた方のために私は十字架で死ぬ。だからこそ、あなた方は私の愛を包まれて生きなさい。いつどんな時もどこに行っても、私はあなたを離さない。そしてあなたのどんな祈りも想いも聞き続けよう。私は、今もこれからもあなたが豊かな実を結ぶよう喜んで手入れをし続け、あなたを完全な者へと導く。だから、安心して、私の十字架の愛を受け入れ、信仰者として歩み、他者にその愛を分かち合ってゆきなさい。」

主のお命じになられた愛とは、十字架の愛のその意味を知り、受け入れ応答してゆくこと。そして、その主の愛を身にまとい互いに支え認め合い生活すること。いつも主に守られている事を信じ、安心すること。そして、その愛を他者に社会に向けること。宣教することです。

キリスト教の宣教の原動力はキリストの十字架の愛であり、その愛の力強さに信頼した群れが、主の守りによって社会に日常に押し出され、主の導きによってその宣教の業は豊かに実を結ぶ。その宣教において示すものは、内にも外にも愚直に「互いに愛しあうこと」だ。と。

 

「あなた方は私の友である。私は、その友のためにあなたのために進んで十字架で死にましょう。だからこそ、あなた方は生きるのです。何のために生きるのか?それは愛を分かつため。信徒同士愛し合い苦難を乗り越え、混迷の中にある他者と社会とに愛を証し、祈り仕えなさい。私はその業を必ず守り導き、豊かに実りへと導く。」と。

 

私たち一人一人は、主の「愛の命(お命じ)」を受け、「十字架上の命(いのち)」を受けた者です。この聖書のみ言葉に信頼し感謝するとともに、この四谷の地で、また私たちの生活の場で、これほどまでに大いなる主の愛を証してゆきたいと願います。

 

 

【祈り】

主よ、あなたの御独り子の十字架への想いに、私たち一人一人への想いに触れました。あなたの死によって私たちは今を生き、あなたの復活によって私たちも救いを約束されています。

どうか、私たちが主イエスの愛に信頼し安心し、またそのお命じに従い、いのちを受けたものとして歩んでゆくことができますように。

混迷の中にあるこの世をあなたが導き、私たちもあなたを証させてください。私たちの身近な人々をお守りくださいますように。

十字架と復活の主イエスキリストの御名によって祈ります。 アーメン。

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『世』にある愛    柳下明子牧師

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